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壁の背景

 ?東ドイツの中にあった西ベルリン?

本当に悲しいですね。もう二度とこのようなことがない様にしてほしいですね。

時として「ベルリンは東西ドイツの境界線上に位置し、ベルリンの壁は、その境界線の一部」と思われがちだが、これは誤解である。そもそも、ベルリンは全域が東ドイツの中に含まれており、西ドイツとは完全に離れていた。そして(東)ベルリンは東西ドイツ分断前からそのまま分断後も引き続いて旧東ドイツの首都であったのである(旧西ドイツの首都はボン)。

つまり、東ドイツに囲まれていたベルリン市がさらに国としてのドイツの東西分断とは別に、ベルリン市としても東西に分断されたのである。 この時、分断されたベルリン市の東側部分が「旧東ドイツ領」となり、西側部分が「旧西ドイツ領」(正確には連合軍管理区域)として「西ドイツの飛び地」となった。このため西ベルリンは結果的に地形的に周りを旧東ドイツ国に囲まれる形となってしまった為、この旧西ドイツ領である西ベルリンを東ドイツから隔離して囲む形で構築されたのが「ベルリンの壁」である。壁はベルリン市西半分をぐるっと取り囲む形で建設されたのであり、東西ベルリン市の間だけに壁があったわけではない。

これは、第二次世界大戦後のドイツが連合国(米・英・仏・ソ)に分割統治されることになった際、連合国は、ドイツの分割統治とは別にベルリンを分割統治したことに由来する。つまり、ドイツおよびベルリンにおいても、東(ソ連統治領域)と西(米・英・仏統治領域)に分断したのであった。

分割統治開始後まもなく、米・英・仏など自由主義陣営とソ連など共産主義陣営が対立する冷戦に突入し、1948年6月からベルリンへの生活物資の搬入も遮断された(ベルリン封鎖)。西側諸国は輸送機を総動員し、燃料・食料を始めとする生活物資を空輸し、西ベルリン市民を支えたため(空中架橋作戦)、翌1949年5月に封鎖は解除された。


なお、東西ドイツそれぞれで国家が生まれると、東ベルリンは(東ドイツを統治していた)旧ドイツ民主共和国の首都となったが、西ベルリンは地理的に西ドイツと離れていたことから、形式上「(西ドイツを統治していた)ドイツ連邦共和国籍の人が暮らす、米・英・仏3か国の信託統治領」となり、西ドイツ領とはならなかった。そのため、ドイツ連邦共和国の航空会社であるルフトハンザの西ベルリンの空港への乗り入れは禁止されていたりしたが、事実上はドイツ連邦共和国が実効支配する飛び地の特別州であった。

西ベルリンと西ドイツとの往来は、指定されたアウトバーン、直通列車(東独領内では停まらない回廊列車)と空路により可能であった(東ドイツを横切る際の安全性は協定で保証されたが、上記のように、西ベルリンに入れる航空機は米・英・仏のものに限られ、西ドイツのルフトハンザは入れなかった)。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2008年01月09日 19:29に投稿されたエントリーのページです。

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